2011年12月21日〜24日 南相馬市・飯舘村・浪江町・川俣町の現状など


このレポはあくまでも個人の感想、個人の計測値です。


福島県の災害派遣等従事車両の高速無料措置が延長となり、3ヶ月ぶりに南相馬市へボランティアに行った。

仕事が終わってから一旦帰宅し、外環-東北道と繋ぎ二本松ICから川俣町・浪江町・飯舘村と走り南相馬市入り。
到着が25時だったので、仲町ボランティア活動センターが入っている仲町児童センターの駐車場で車中泊。
夜中に寒くて何度も目がさめた。


起床。気温は0度。
仲町児童センターは砂利や表土が新しくなっており、除染されているのかな?

平日だからなのか、ボランティアセンターが移転したからなのか、定時になっても集まったボランティアは4人。
明らかに人手不足。



4人でガレキ撤去開始。
当然あまり進まない。

関東のTVでは震災復興がクローズアップされているが、南相馬はそれどころではない。
津波だけでなく原発でも被災し、市の南半分にあたる小高区は立ち入りも復興も出来ない。
2012年4月には小高区沿岸部の空間線量が低い地区だけ警戒区域解除になるようだが、どうなってしまうのだろう。
とにかく自分に出来ることから始めよう。背伸びしても仕方が無い。
また休みが合えば手助けに行こう。

16時にボランティアセンターに帰還し、4人で森の湯へ行き、解散。
気持ちの良い人たちだった。



夜、ビジネスホテルでニュースを見ていたら、津波で家族を亡くした萱浜地区の方が電飾で慰霊メッセージを出しているとの情報が。
22時近かったが、昼に遠くから見たことがあったので行ってみた。
写真は原発20Km圏内通行止の警告。



萱浜地区に夜行けば、すぐにわかる。
周囲は津波で何も無くなっており、ここだけポツンと光っているからだ。
「 ありがとう  みんながわらいあえるところにします 」

この方は津波で家族を失い、重機を操って多くの遺体を探し出し、そしていまだに家族の遺体と出会えていない。
救いの無い現実。
それなのに「ありがとう」とは。
部外者の私は、涕泣するでもなく極寒の中ただ立ち尽くしていた。不思議な感情のうねりだった。
救いのない現実から、間違いなく、立ち直ろうとしている南相馬の人の強さを、優しさを見た。



萱浜地区はほぼ全域が津波で壊滅し、明かりがほとんど無い。
星空だけが不気味なほど美しかった。
写真中央下にある小山の裏にあるぼんやりとした光、30Km先の福島第一原発の照明であろうか。

ちなみにここは蓋の無い深い側溝が多い。
夜は明かりが無い為、落ちて大怪我をする可能性がある。
私は片足を側溝に落とし、一人股裂きをやってしまった。怪我しなくてよかった・・・



萱浜からの帰路、常磐線が相馬-原ノ町間で復旧したことを思い出した。
急いで原ノ町駅へ向かうと、ちょうど最終電車が入ってきた。
駅から人が吐き出されるのを見て、ちょっと感動した。
当たり前の光景。当たり前に戻る日は、いつになるのだろうか。






最終列車が回送となり、原ノ町のホームをゆっくりと出て行くと、それまで快晴だった星空が急にアラレを降らした。
かなり痛かったが、祝!復旧!!


この後、降りしきるアラレの中ホテルへ戻り、熟睡。


【 そ の 2 へ 】